

幼い頃、私にとって寺や仏像、古い工芸品は特別なものではありませんでした。
仏師だった祖父と庭の縁側に座り、
池の錦鯉や盆栽を眺めながら過ごす時間。
庭には祖父が集めてきた瓦や石が並び、
本棚には古い宝物や歴史の遺物を紹介する本がありました。
平城宮跡も、今のような観光地というより、
子どもたちが自由に走り回ることのできる大きな広場でした。
双眼鏡や望遠鏡を持って野鳥を探しに出かけ、
気がつけば、古いものや自然は、
いつも自分の日常のすぐ隣にありました。
祖父からは、よく
「お前にしか出来ないことをしろ。」
と言われて育ちました。
同じことを繰り返すのではなく、
自分の目で見て、自分の手で考え、
自分だけの表現を見つけなさい。
その言葉は、今も私の制作の原点になっています。
私が古代の工芸品に惹かれる理由は、
歴史の知識が豊富だからではありません。
むしろ、年号や時代背景を覚えることは昔から苦手でした。
けれど、
目の前にある美しいものを見ると、
「昔の人は、どうやってこれを作ったのだろう。」
「どんな景色を見て、何を想っていたのだろう。」
そんなことを自然と考えてしまいます。
このシリーズは、
古代の宝物を忠実に写すためのものではありません。
ありのままの姿は、
きっと、ありのままが一番美しい。
だから私は、
その美しさを一度、自分というフィルターを通して見つめ直します。
古代の人々が残した記憶を、
令和を生きる私が見たとき、
そこにはどんな新しい景色が生まれるのだろう。
その小さな実験が、
私にとっての「古代の記憶」です。


作品は、一本の線から始まります。
古代の意匠を観察し、
自分の中にある景色と重ね合わせながら、
切り絵として成立する形へと少しずつ描き直していきます。
下絵の段階で、
私の世界はほとんど完成しています。

紙は、
とても身近で、儚く、繊細な素材です。
少し力を入れれば破れてしまう一方で、
驚くほど細い線でも、しっかりと形を保ってくれます。
その不思議な強さと自由さが、
私は昔から好きでした。
切り絵にすることで、
紙は光を受け、影を生み、
背景や時間、その日の気持ちによって、
少しずつ違う表情を見せてくれます。
平面だった一枚の絵が、
手のひらの中で小さな世界になる。
それが、私にとって工芸の持つ大きな魅力です。
古代の美しさを借りるのではなく、
その時代に流れていた空気や、
ものを生み出そうとした人々の想いを受け取り、
私自身の線として描き直していく。
そんな小さな対話を、
これからも続けていきたいと思っています。
そして、
このページを訪れた誰かが、
「奈良って面白いな。」
「昔の人って、すごいものを作っていたんだな。」
「次は、どんな作品が生まれるんだろう。」
そんな小さな心の変化を持ち帰ってくれたなら、
これ以上嬉しいことはありません。

作品の背景には、
遠い時代から受け継がれてきた物語や技術があります。
興味を持っていただけた方へ、
私が出会った小さな「記憶」を、少しだけご紹介します。
千三百年の時を越えて受け継がれた宝物庫
正倉院の宝物を見ていると、
人は昔から光そのものを作品にしたかったのだと感じます。
私は長い間、
この文様が日本で生まれたものだと思ってました。
正倉院の宝物を辿っていくと、
その先には、遠い国々の景色が広がっています。
美しいものを愛した一人の天皇



















